和気先生と白水先生 (4 回生:横山昌鶴)( 2016.11.22 )

和気先生と白水先生 横山昌鶴(4 回生: 2016.11.22 受理)

2004年、高校の同窓会で、この年に和気先生が亡くなられたことを知った。先生には中学・高校を通じて生物を教わり、担任にもなっていただいた。先生と会っていなくても、昆虫には興味を持ったと思うが、虫や草に夢中になったのは中学に入った時に和気先生が居られたからである。四国の植物界ではよく知られており、一流教師を挙った学園の方針に相応しい人だったが、生徒には親しく接しながら実践を通じて全てを教えるタイプであった。学校では生物部を主宰しておられ、入学と同時にその生物部に入った生徒は多かった。生物部の生徒達は先生について県内外の山野に出かけては虫を捕り、草を採集した。

先生はその特異な風貌と、自転車で走っている時の姿から、ウシガエルともコッテウシとも渾名されていた。コッテウシとは、当時はただ何となく大きく強い雄牛をイメージしていたが、広辞苑によると「重荷を負う牡 牛」、「強健な牡牛」とあり、子供の頃のイメージはほぼ当たっていたようだ。先生は何処に行くにも自転車で、肘を張り、頸をやや突き出して、少しがに股気味に自転車を漕ぐ姿は沢山の人達に親しまれていた。1 0キロでも20キロでも、自転車に胴乱やリュックを積み、捕虫網をサドルの後ろに挿して、山に向かって走っていくのである。よくタオルの鉢巻きをしておられた。このように自転車を愛用しておられたから、先生は 自転車の達人であった。今ではマウンテンバイクを使ってそういう芸当をする人は沢山いるが、先生は整地の行き届かない凸凹の地面の上で何時まででも自転車を止めて静止している事が出来た。運動会では自 転車遅乗り競争という競技をやり、勿論先生が優勝するのであった。授業を通じ、課外活動を通じ、このようなアトラクションを通じて、先生は学校一の人気を誇っていて、生徒達の憧れであった。自転車通学の男 子生徒達はこぞって遅乗りの練習をやったものである。また、先生はその渾名の示すように、大変な馬力の持ち主でもあった。讃岐平野の後背山地である讃岐山脈の山々への採集行では、徐々に高くなって行く 標高に逆らって、皆で自転車を漕いで行くのであるが、何時も先生の背中が前にあった。丸亀城に見返り坂と呼ばれる100メートルほどの恐ろしい急坂があったが、元気な少年であった我々でも歩いて登るのさ え大変なこの坂を、先生は一寸した短い助走を付けて一気に登ってしまうのである。今の自転車ではない。その頃の自転車は今から考えると飛んでもなく重かったのである。この坂への挑戦は在学期間を通して自 転車少年達の間で続いた。滅多に成功しないが、達成した時の満足感は得も言われぬものがあった。

和気先生のアドバイスで白水先生に手紙を出したことがあった。すぐに丁寧なお返事の葉書を頂いたが、気さくで、まるで旧来の友人に宛てるような、或いは学校の先生が受け持ちの生徒に喋っているような、飾らず簡潔な文面から、先生の人柄が偲ばれた。同じ2004年に先生も亡くなられた。朝日新聞に白水先生の「虫であれば何でも、見れば心が騒ぐ。ぼくの精神構造は昆虫少年だった15歳あたりで停止したまま」という、和気先生にも当てはまりそ うな自己分析の言葉が引用されている。記事に添えられた先生の写真を見ていると、このお二人が対談する様子を見てみたいものと思う。

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